日記(仮題)

日記を書きます

逸脱の回避に関する自己弁護

・生涯学び続けたいという希望と、思い込みの激しい自分の性格を考えると独学を続ければトンデモ説を信奉してしまう方向に行きかねないという恐怖が背反している(独学だと逸脱を修正するようなフィードバックが働かず、むしろ逸脱を増幅するようなフィードバックが働くだろう)


・自分が、量子力学の誤りを発見したと主張するおじさんや、日本語タミル語起源説を信じるおじさんになってしまう未来が容易に想像できる


・その点大学に居続ければ、標準的なカリキュラムに沿って勉強できるので魅力的である


・この、今感じている恐怖は、現在則っている規範から逸脱してしまうことへの恐怖である。これは権威への盲従として、一方では否定的に捉えられうる


・他方、権威に従うことでこの恐怖が解消されるのであれば、それ自体が大きな現世利得である


・そのように考えると、権威の肯定的な効果が明らかになる。生の有限性を考えると、我々は正しさの判断に多くのコストをかけられない。権威を用いることでそれをショートカットできる


・例えば出版社を見てキチンとした本かどうか判断するのは、本の内容を全て読んでから判断するよりもコストが小さい。発言者の肩書きをみて発言内容の正確性を推定するのは、精密なファクトチェックを行うよりも楽である(というより、新聞社が組織的に行うならまだしも、われわれが個人単位でファクトチェックを行うのは事実上不可能である。新聞社のファクトチェックを信頼するのは、新聞社の権威を受け入れることである)


・権威が正しさへのショートカットであると同時に、われわれの感情もまた、最適な行動に対するショートカットであるといえる


・ここで言う最適な行動とは、生物として、われわれの生存にとって(あるいは自らの遺伝子を残すことにとって)最適な行動ということである


・例えば、自分が現在危機的な状況に置かれている、ということを理性的に認識して危険を回避することよりも、恐怖の感情によって回避するほうが早いし、脳のリソースをいたずらに消費しないで済む


・こういったショートカットは完全なものとは言い難い。権威への従属が悪い方向に働くこともあるし、感情に従った行動が自らの生命をおびやかすものとなることもある。

 

・それでもなお、われわれ人間がショートカットに頼らなければならないのは、ひとえにわれわれ人間の演算能力の限界による。正しさを追求するために、あるいは自らの生存可能性を最大限考えるために、われわれは無限のリソースを費やせるわけではない。別の言い方をするならば、われわれが外部に対してかけられる認知コストは有限であり、それを効率的に配分する必要があるということである


・逆に、われわれの演算能力が十分ならば、権威や感情による不完全なショートカットの必要はない。これは、将来的には身体の拡張によって可能となるかもしれないが、現時点では達成されていない


・理性を信じるとは何か。それは、われわれを無限の演算能力と無限の生の時間とその他あらゆる無限のリソースをもった存在と仮定することであるが、これはまったく現実的な想定とはいえない。すなわち、こういった抽象化は、現実をよくモデル化できているとは言いがたい


・モデルと現実の差異が見つかったらどうするか。モデルが現実をよりよく説明するための手段であるという前提に立てば、現実と乖離したモデルは良い説明とはいえない。そうなれば、もっと現実を説明できる、よりよいモデルを追求するのが筋というものであろう


・しかしながら、理性信奉者たちは、モデルにそぐわない現実に耐えかねて、現実のほうを攻撃し始めたようである。彼らは自分たちの理屈の合理性を語り、そして「それに比べて、人間というものはかくも不合理なものだ」と不満を述べる。何のことはない。彼らの理論が、現実の、人間のことわりを捉えられていないだけのことである。その責任を現実のほうになすりつけるとは、何とおこがましい言い分であろうか


・結局のところ、われわれはこの不完全なエミュレータとつきあっていくしかない。ならば、その不完全さを嘆くことよりも、いかにこのエミュレータをハックするか、を考えるのが建設的であろう