日記(仮題)

日記を書きます

進学選択への不満と不安 『逆システム学』を読んで

以下は未完成の原稿ですが、今後完成の見込みがないためここに供養します。(未) と書かれた場所が書けなかった部分です。ほとんど文章をとしての体裁を成していません。

 

 

 

岩波新書の『逆システム学─市場と生命のしくみを解き明かす』(金子勝児玉龍彦) を読んだ。この本は2004年出版で、古本屋で安く売っていたのをタイトルに惹かれて買ってみたものである。かなり挑戦的・刺激的な内容で楽しむことができたのだが、一方で自分にとって目下の課題である進学選択に関して悩みが増してしまったので、それについて簡単に書いておくことにする。

 

その前に、話の引き合いに出しておいて全く本の内容に触れないのでは失礼にあたるだろうから、軽く紹介をしておく。カバー袖に書かれた内容説明を引用すると

市場や生命という複雑なしくみを解明する方法を著者たちは「逆システム学」と呼ぶ.それは,新古典派経済学や遺伝子決定論などの主流の学問研究を批判し,市場や生命の本質を多重フィードバックのしくみに見出すというものだ.経済学と生命科学の対話から浮かび上がる,まったく新しい科学の方法論.

とのことである。二人の著者はそれぞれ経済学・生物学の専門家で、それぞれの分野で戦後長らく支配的であった市場原理主義・遺伝子決定論といったパラダイムを、個々の要素の分析に基づき理論を構築するという共通性から「要素還元論」として一まとめにする。そして現代はこれらのパラダイムが十分に検討されないまま他の領域に向けて拡大解釈され、ドグマが暴走する時代であるとして批判するのである。

 

著者たちによれば、この要素還元論と対極をなすのが構造論や複雑系といった立場である。これら全体論は、個々の要素に先立って本質的な全体構造を規定することで、複雑なシステムに関する統合的な理論の構築を目指した。しかしながら、具体的な問題に対し説明を与える事のできないこれらの理論は、結局のところ支持を獲得することはできなかったと総括している。

 

このような方法論的分裂のなかで、著者たちがそれに代わる新たなパラダイムとして提唱するのが「逆システム学」である。中心となるのが「制度の束」や「多重フィードバック」といった考え方のようだが、これ以上よく分かってもいないものを下手に説明しようとすると、すぐにボロが出てしまいそうなのでここまでにしておく。具体的な内容については、ぜひ書籍を参照していただきたい。

 

(ところで、生物学・経済学という離れた二分野を類比的に扱う本書の記述は、一貫して生物学→経済学の順になされている。難解なテーマに挑戦する中で、少しでも読者の理解が進むようにとの著者の気遣いのようだ。しかし、タイトルや袖の紹介文は経済学→生物学の順になっており、そこに一貫性がないのは少々気になるところである)

 

先に断っておくと、私は本書の内容についてこれ以上の議論を進めるつもりはない。むしろ、この類の本は凝り固まった脳をリフレッシュするのにパラパラと読むくらいが丁度よいと思っている。著者の理論が不完全で、真面目に取り合うのに値しないと言いたいわけではない。(むしろ、どんな小さなものでも、一定の体系をもった新たな理論を構築するのは大変な困難を伴うし、それをやり遂げるのは賞賛に値する行為だと思っている) そうではなくて、自分のような知識の足りない段階の人間には、このような魅力的な理論から適切な距離をおくことができないと考えているからである。そういうわけなので、以下に書くものは、単に自分にとって卑近な問題にかこつけた単なる愚痴だとご理解いただきたい。

 

さて、私は現在東京大学文科二類に所属している。この科類の学生は、二年生の夏に行われる進学選択で経済学部へ進学するのが一般的である。現役受験生のころは法学部への進学を希望して文科一類を受験した私だが、不合格となって浪人したことで気が変わり、今年の春、こんどは経済学部への進学を見据えて文科二類へ入学したのである。

 

(未)

 

文科二類の学生として、私はSセメスター (夏学期) とAセメスター (秋学期) の両方で経済学を履修した。それぞれの授業担当は別の教員であったが、どちらの授業も、初回のガイダンスではこんなことを言っていた。「確かに、これから学ぶ古典的な経済学の理論では、実際の経済を説明しきれない点がたくさんある。しかし、これから学ぶ価格理論が現在の経済学の基礎となっているのもまた事実である。よって、学部生の早い段階でこのような内容を学ぶことには意義がある」
なるほど、そういう持っていき方で授業に入るのか。まあそういうものかな。これを聞いた当初はその程度にしか思っていなかった。しかし、授業が進むにつれて以前の経験を思い出した。

 

(未)

 

ある人がこんなことを言っていた。
「人間というのは不合理な生き物だ」
次の一言は続かなかったが、恐らく以下のような含意があった。
「なぜなら、経済学が指し示すような合理的な行動を取らないから」
同語反復、あるいは原因と結果の逆転。これはまさに、本書で挙げられているセントラルドグマの暴走であろう。きちんと経済学の教育を受けた、心有る人ならばこんな乱暴なことは言わないだろうから、これで経済学に対するを印象が悪くなったと言ったら、とんだ風評被害に申し訳ない気持ちでいっぱいであるのだが。

 

しかし、次の内容は、経済学が専門の大学教員が、経済学部への進学を考えている学生へのガイダンスで述べていたことである。正確な言い回しは忘れてしまったが、概ね以下のようなことを言っていた。
行動経済学というのは、人間の非合理的な意思決定を分析する学問です」
これには愕然とした。もしかすると、同席していた経済学の他分野の教員に対する遠慮もあったのかもしれない。それでも、既存の経済学の「理」を打破し、新たなる「理」を打ち立てんという気概はそこにはなかった。

 

(未)

 

(経済学における「合理性」の定義が、日常語として用いられる「合理的」と比べきわめて限定的な概念であることは、つい最近の授業で出てきたので知っているつもりである。しかし、専門家が一般向けに発信する際に説明なくこの用語を用いておいて、後から「実は専門用語として使っていた」と弁明するのは通らない言い分であろう。もともと専門用語だったものが誤用されて一般に広まったのならまだしも、「合理的」というのは日常語から借用し、経済学の世界で限定的な意味を付与したタームだからである。専門家がこの点をあえて曖昧なまま発信するのは、語義の二重性を悪用して、自らが責任を負わない形でより一般化した言説を展開しようとしているためではないかとすら思える)