日記(仮題)

日記を書きます

専門用語の「誤用」について

 

 

ここ3週間で専門教育を受け始めて思ったことを書き散らかす。

 

・各々の学問分野に専門用語が存在して、分野によって厳密さの程度が異なるにせよ、何らかの学問上の定義が与えられている。とはいえ、専門用語も日常語としての日本語の上に構築されているので、その言語感覚の影響を強く受けざるを得ない。例えば「合理的」といったとき、初歩的な経済学の教科書にもきちんと定義が書かれてはいるんだけど、経済学の理論が一般の (専門教育を受けてない) 人たちに紹介されたとき、やっぱり日常語の「合理的」の意味で解釈するだろうし。

 

 

・でもこれは、なにも非専門家の間だけの話ではなくて、むしろ専門家や、あるいは専門教育を受けようとしている我々のような人間のほうがよっぽど、理論的な理解の第一歩として日常語としての意味の助けを借りていると思う。それに専門のタームはあくまで日常語の言語空間を間借りさせてもらっているに過ぎないので、「その単語は専門用語としては厳密にこういう意味なので適当に使うな」みたいな偉そうなこと言える立場でもない。

 

 

・まあそんな分かりきったことはどうでもよろしい。こんなふうに当初はきちんとした定義を与えられていた専門用語が、いつしか一般に広まり、ある種のイデオロギーを形成する核となっているのを目にすることがある。当然日常語としての語感を頼りに普及するので、専門サイドからみると「誤用」だ、ということもしばしばある。こういうときに、専門家たらんとする人がどう振る舞うべきか、ってのをしばらく考えている。

 

 

・まず、専門家を名乗りながら、専門用語としての使い方と日常語としての使い方を区別せずに発信するのは、厳に慎まなければならない態度だと思う。でも現実を見ると、両方の用法を混同して使って、わざと二つの境界をあいまいにさせるような言葉遣いをする専門家は少なくない。

 

 

・ぼくは、これは一種のポジショントークなのだと理解している。というのも、社会においてある専門分野の主張 (をパクって換骨奪胎したイデオロギー) が広く受け入れられてその価値観が支配的になれば、一番得をするのはその分野の専門家だからだ。彼らに「誤用」を訂正する動機はないし、むしろあえて境界をごまかして侵略に加担することが自分自身の利益になる。このあたりは、たぶん経済学も大きな責任を免れられない部分だと思う。

 

 

・では、専門家であろうとする人たちは無知な人々の誤解を解いてまわるべきなのか。厳密にはこうなんだ、と放言したところで何の意味があるのか。そもそも言葉は彼らの独占物ではないというのに、何の権利があって?あるいは意味の変遷も言語空間における自然な創造作用だ、と言って関与しないか。そうやって知に引きこもることは専門家としての責任を果たしていると言えるのか。

 

 

こんなことを考えながら悶々としている、専門課程が始まってからの3週間だった。

技術に関するメモ (2021年)

 

・ある核心的な技術が発明されないとき、それを迂回する形で非常に高度な、そしてある意味では無駄な技術が発展することがある。

 

・文字が発明されなかったインカ帝国の結縄や、火器のなかった日本における刀剣の鍛冶技術は、非常に高度な技術である。その一方で、後の時代の我々から見ると恐ろしく遠回りなことをしているようにも見える。

 

・迂回や遠回りというのは、近道を知ってしまった時代の結果論でしかないのは確かである。しかしながら、激しく蛇行する川が直線的な流路へ移ろうとするように、高度に迂回的な技術が発達するほど、潜在的な核心的技術への要請が次第に強まる。その圧力が十分に高まると、偶然が最後の一押しとなって堤防が決壊し、流路は短絡する。残された古い技術は、さながら本流から切り離された河跡湖のようなものである。

 

・現在われわれの身体を取り巻く状況を考えてみる。少ない演算能力の中で生存に適した行動を選択できるよう、人間の身体のなかにさまざまな機構が発達してきた。その最たるものが感情であり、例えばわれわれは恐怖の感情を抱くおかげで理性的な判断を待たずとも危険を回避できる。

 

・だが、生存環境の急激な変化によって、我々の身体に組み込まれた機構が導き出す最適解の近似値と実際の最適な行動との間に、齟齬が生じるようになってきた。すると、そのようなずれをいかにして補正するかが、大きな問題となる。

 

・抜本的解決のためには、身体の内的なメカニズム自体を改変する必要があるが、それには相応の技術的困難を伴う。また、外部環境と内部機構のインターフェイスであるわれわれの五感は必ずしも性能がよいとは言えないものの、五感を経由せずに外部から情報を取り入れることも、現時点では難しい。

 

・したがって、消去法的に、現在われわれが手を加えられるのは外部環境のみである。望ましい出力を得るために、五感に対する入力を調整する技術が必要とされる。最近流行のVRの技術は、まさにわれわれの視覚を騙し外部環境を誤認させることで、望ましい結果を引き出そうというものである。

 

・感覚をハックするという迂遠な方法で認知や行動を変化させる、そのような技術が異常なまでに発達しつつある現状は、核心的技術への要請が極端に高まった緊張状態であると言える。この状態は長くは続かないだろうが、次に一つの時代に終止符を打つのがどのような技術になるのかは、まだ分からない。

進学選択への不満と不安 『逆システム学』を読んで

以下は未完成の原稿ですが、今後完成の見込みがないためここに供養します。(未) と書かれた場所が書けなかった部分です。ほとんど文章をとしての体裁を成していません。

 

 

 

岩波新書の『逆システム学─市場と生命のしくみを解き明かす』(金子勝児玉龍彦) を読んだ。この本は2004年出版で、古本屋で安く売っていたのをタイトルに惹かれて買ってみたものである。かなり挑戦的・刺激的な内容で楽しむことができたのだが、一方で自分にとって目下の課題である進学選択に関して悩みが増してしまったので、それについて簡単に書いておくことにする。

 

その前に、話の引き合いに出しておいて全く本の内容に触れないのでは失礼にあたるだろうから、軽く紹介をしておく。カバー袖に書かれた内容説明を引用すると

市場や生命という複雑なしくみを解明する方法を著者たちは「逆システム学」と呼ぶ.それは,新古典派経済学や遺伝子決定論などの主流の学問研究を批判し,市場や生命の本質を多重フィードバックのしくみに見出すというものだ.経済学と生命科学の対話から浮かび上がる,まったく新しい科学の方法論.

とのことである。二人の著者はそれぞれ経済学・生物学の専門家で、それぞれの分野で戦後長らく支配的であった市場原理主義・遺伝子決定論といったパラダイムを、個々の要素の分析に基づき理論を構築するという共通性から「要素還元論」として一まとめにする。そして現代はこれらのパラダイムが十分に検討されないまま他の領域に向けて拡大解釈され、ドグマが暴走する時代であるとして批判するのである。

 

著者たちによれば、この要素還元論と対極をなすのが構造論や複雑系といった立場である。これら全体論は、個々の要素に先立って本質的な全体構造を規定することで、複雑なシステムに関する統合的な理論の構築を目指した。しかしながら、具体的な問題に対し説明を与える事のできないこれらの理論は、結局のところ支持を獲得することはできなかったと総括している。

 

このような方法論的分裂のなかで、著者たちがそれに代わる新たなパラダイムとして提唱するのが「逆システム学」である。中心となるのが「制度の束」や「多重フィードバック」といった考え方のようだが、これ以上よく分かってもいないものを下手に説明しようとすると、すぐにボロが出てしまいそうなのでここまでにしておく。具体的な内容については、ぜひ書籍を参照していただきたい。

 

(ところで、生物学・経済学という離れた二分野を類比的に扱う本書の記述は、一貫して生物学→経済学の順になされている。難解なテーマに挑戦する中で、少しでも読者の理解が進むようにとの著者の気遣いのようだ。しかし、タイトルや袖の紹介文は経済学→生物学の順になっており、そこに一貫性がないのは少々気になるところである)

 

先に断っておくと、私は本書の内容についてこれ以上の議論を進めるつもりはない。むしろ、この類の本は凝り固まった脳をリフレッシュするのにパラパラと読むくらいが丁度よいと思っている。著者の理論が不完全で、真面目に取り合うのに値しないと言いたいわけではない。(むしろ、どんな小さなものでも、一定の体系をもった新たな理論を構築するのは大変な困難を伴うし、それをやり遂げるのは賞賛に値する行為だと思っている) そうではなくて、自分のような知識の足りない段階の人間には、このような魅力的な理論から適切な距離をおくことができないと考えているからである。そういうわけなので、以下に書くものは、単に自分にとって卑近な問題にかこつけた単なる愚痴だとご理解いただきたい。

 

さて、私は現在東京大学文科二類に所属している。この科類の学生は、二年生の夏に行われる進学選択で経済学部へ進学するのが一般的である。現役受験生のころは法学部への進学を希望して文科一類を受験した私だが、不合格となって浪人したことで気が変わり、今年の春、こんどは経済学部への進学を見据えて文科二類へ入学したのである。

 

(未)

 

文科二類の学生として、私はSセメスター (夏学期) とAセメスター (秋学期) の両方で経済学を履修した。それぞれの授業担当は別の教員であったが、どちらの授業も、初回のガイダンスではこんなことを言っていた。「確かに、これから学ぶ古典的な経済学の理論では、実際の経済を説明しきれない点がたくさんある。しかし、これから学ぶ価格理論が現在の経済学の基礎となっているのもまた事実である。よって、学部生の早い段階でこのような内容を学ぶことには意義がある」
なるほど、そういう持っていき方で授業に入るのか。まあそういうものかな。これを聞いた当初はその程度にしか思っていなかった。しかし、授業が進むにつれて以前の経験を思い出した。

 

(未)

 

ある人がこんなことを言っていた。
「人間というのは不合理な生き物だ」
次の一言は続かなかったが、恐らく以下のような含意があった。
「なぜなら、経済学が指し示すような合理的な行動を取らないから」
同語反復、あるいは原因と結果の逆転。これはまさに、本書で挙げられているセントラルドグマの暴走であろう。きちんと経済学の教育を受けた、心有る人ならばこんな乱暴なことは言わないだろうから、これで経済学に対するを印象が悪くなったと言ったら、とんだ風評被害に申し訳ない気持ちでいっぱいであるのだが。

 

しかし、次の内容は、経済学が専門の大学教員が、経済学部への進学を考えている学生へのガイダンスで述べていたことである。正確な言い回しは忘れてしまったが、概ね以下のようなことを言っていた。
行動経済学というのは、人間の非合理的な意思決定を分析する学問です」
これには愕然とした。もしかすると、同席していた経済学の他分野の教員に対する遠慮もあったのかもしれない。それでも、既存の経済学の「理」を打破し、新たなる「理」を打ち立てんという気概はそこにはなかった。

 

(未)

 

(経済学における「合理性」の定義が、日常語として用いられる「合理的」と比べきわめて限定的な概念であることは、つい最近の授業で出てきたので知っているつもりである。しかし、専門家が一般向けに発信する際に説明なくこの用語を用いておいて、後から「実は専門用語として使っていた」と弁明するのは通らない言い分であろう。もともと専門用語だったものが誤用されて一般に広まったのならまだしも、「合理的」というのは日常語から借用し、経済学の世界で限定的な意味を付与したタームだからである。専門家がこの点をあえて曖昧なまま発信するのは、語義の二重性を悪用して、自らが責任を負わない形でより一般化した言説を展開しようとしているためではないかとすら思える)

逸脱の回避に関する自己弁護

・生涯学び続けたいという希望と、思い込みの激しい自分の性格を考えると独学を続ければトンデモ説を信奉してしまう方向に行きかねないという恐怖が背反している(独学だと逸脱を修正するようなフィードバックが働かず、むしろ逸脱を増幅するようなフィードバックが働くだろう)


・自分が、量子力学の誤りを発見したと主張するおじさんや、日本語タミル語起源説を信じるおじさんになってしまう未来が容易に想像できる


・その点大学に居続ければ、標準的なカリキュラムに沿って勉強できるので魅力的である


・この、今感じている恐怖は、現在則っている規範から逸脱してしまうことへの恐怖である。これは権威への盲従として、一方では否定的に捉えられうる


・他方、権威に従うことでこの恐怖が解消されるのであれば、それ自体が大きな現世利得である


・そのように考えると、権威の肯定的な効果が明らかになる。生の有限性を考えると、我々は正しさの判断に多くのコストをかけられない。権威を用いることでそれをショートカットできる


・例えば出版社を見てキチンとした本かどうか判断するのは、本の内容を全て読んでから判断するよりもコストが小さい。発言者の肩書きをみて発言内容の正確性を推定するのは、精密なファクトチェックを行うよりも楽である(というより、新聞社が組織的に行うならまだしも、われわれが個人単位でファクトチェックを行うのは事実上不可能である。新聞社のファクトチェックを信頼するのは、新聞社の権威を受け入れることである)


・権威が正しさへのショートカットであると同時に、われわれの感情もまた、最適な行動に対するショートカットであるといえる


・ここで言う最適な行動とは、生物として、われわれの生存にとって(あるいは自らの遺伝子を残すことにとって)最適な行動ということである


・例えば、自分が現在危機的な状況に置かれている、ということを理性的に認識して危険を回避することよりも、恐怖の感情によって回避するほうが早いし、脳のリソースをいたずらに消費しないで済む


・こういったショートカットは完全なものとは言い難い。権威への従属が悪い方向に働くこともあるし、感情に従った行動が自らの生命をおびやかすものとなることもある。

 

・それでもなお、われわれ人間がショートカットに頼らなければならないのは、ひとえにわれわれ人間の演算能力の限界による。正しさを追求するために、あるいは自らの生存可能性を最大限考えるために、われわれは無限のリソースを費やせるわけではない。別の言い方をするならば、われわれが外部に対してかけられる認知コストは有限であり、それを効率的に配分する必要があるということである


・逆に、われわれの演算能力が十分ならば、権威や感情による不完全なショートカットの必要はない。これは、将来的には身体の拡張によって可能となるかもしれないが、現時点では達成されていない


・理性を信じるとは何か。それは、われわれを無限の演算能力と無限の生の時間とその他あらゆる無限のリソースをもった存在と仮定することであるが、これはまったく現実的な想定とはいえない。すなわち、こういった抽象化は、現実をよくモデル化できているとは言いがたい


・モデルと現実の差異が見つかったらどうするか。モデルが現実をよりよく説明するための手段であるという前提に立てば、現実と乖離したモデルは良い説明とはいえない。そうなれば、もっと現実を説明できる、よりよいモデルを追求するのが筋というものであろう


・しかしながら、理性信奉者たちは、モデルにそぐわない現実に耐えかねて、現実のほうを攻撃し始めたようである。彼らは自分たちの理屈の合理性を語り、そして「それに比べて、人間というものはかくも不合理なものだ」と不満を述べる。何のことはない。彼らの理論が、現実の、人間のことわりを捉えられていないだけのことである。その責任を現実のほうになすりつけるとは、何とおこがましい言い分であろうか


・結局のところ、われわれはこの不完全なエミュレータとつきあっていくしかない。ならば、その不完全さを嘆くことよりも、いかにこのエミュレータをハックするか、を考えるのが建設的であろう

Twitterのここがよくない

 かれこれ3年くらいTwitterをやってきて、色々な人と知り合えたりと良いことも沢山あったのだけど、最近はやたらとこのツールの欠点が目につくようになったので軽くメモ。

1.やっぱり140字じゃ厳しい

 これはよく言われていることだけど、140字に載せられる情報量ってほんとに少ない。基本的に一つのメッセージしか伝えられなくて、ちょっとした論理展開があるとすぐ2ツイート目に突入しちゃう。頑張ってリプで繋げたとしても、TwitterのUI上、TLに流されるときにはバラバラに分解されちゃうし、そうなるとわざわざタップしてもらわない限りリプまで読んでもらえない。

2.目に毒な表現が多い

 字数制限だけでなく、時間制限の問題もある。TLには常に新しいツイートが流れてくるわけで、一つひとつを読むのに掛ける時間はせいぜい1,2秒だろうし、そもそも全部を真面目に読んでるわけでもない。そうなると過激な表現で目に留まるツイートとか、定型文で認知的な負荷が低くて理解しやすいツイートが流れてきやすくて、それに慣れてしまう。
 おかげで最近では、こねこね小難しいことを語る文書とか、平仮名が多くて冗長な文章とかを読むのが面倒くさくなってきていて、非常によろしくない。

3.仕組みがよく分からない

 他人のいいねしたツイートが表示されるようになってから、ますます雲行きが怪しい。われわれが目にする情報がどういう風に選別され、優先度をつけられているのか、その仕組みが完全にブラックボックスの中にある。他にもツイートが時系列にならない「おすすめ」なる表示方法がデフォルトになっていることとか、通知なくツイートが検索に引っかからなくなるShadow Banの存在とか、どうにも信用できない点が多い。
 これはなにも、陰謀論めいた話ではなくて、Twitter社のビジネスモデルが広告収入に頼ったものである以上、その利益を最大化するというインセンティブもあるし、実行できてしまう環境もあるよねっていう。(具体的なことを色々と書いてもただの妄想になってしまうので、やめておく) 現状Twitter社はあんまり儲かってないらしいので、今後がますます不安。

4.自分の情報の広がりがコントロールできない

 内輪ネタだったはずなのに文脈が無視されてバズっちゃう、みたいなのはたまに聞く。幸いにして僕はバズったことないけれども(負け惜しみ)、FFとの個人的なやり取りまで公開されてるのはあんまりいい気分ではない。鍵垢使えとかDMでやれとか色々解決策は用意されてるんだけど、そこまで使いこなせてない。

5.情報入手が非効率

 Twitterに限ったことではないけれど、文字主体の情報は密度が低くて、どうにも摂取効率が悪い。われわれには五感があることになっているのだが、Twitterをみているとき視覚以外の四つはほとんど休んでいるし、視覚だって動画と比べたらフルに使われているとも言えない。とにかく入ってくる情報量が少ないので、その分見るのに長時間をかけてしまう。最近よく言われる、オンライン授業の学習効果が思ったほど出ない、という話も実はこの辺の問題だと思っているので、今度詳しく書こうと思っている。

 というか、そもそも、本当に面白い人はTwitterをやってないか、やってても重要なことはTwitterでは言わないような気もしている。が、これについて考え始めると色々と悲しい気持ちになるので、あんまり深く突っ込まない方がいいかもしれない。

 色々文句垂れてきたけど、これも一種のノロケみたいなもんで、当分Twitterをやめるのは無理そう。とりあえず代替手段の確保から始めようかと思っている。

受験不合格までの道

 Twiiterで報告した通り、唯一受験していた大学の不合格が決まったため浪人生となりました。真面目に受験勉強に取り組まなかった自分には、「この時期にあの教材をやればよかった」とか「あの分野を後回しにしたのが良くなかった」などといった具体的な反省は書けませんが、かといって失敗の根本的な要因を解決せずにこのまま浪人しても合格することはできないだろうと思います。そこで分析の第一歩として、自分の身に起こった出来事を中学入学に遡って振り返り、自分がどのようにして不合格に至ったのか簡単なストーリーを構成してみます。


・始まりは些細なことから
 中学入学直後、同学年の半数以上の人は鉄緑会などの塾に入った。一方自分は中学に入ってまで塾通いを続けるのを面倒に思い(すでに中学受験のために2年間通塾していた)、大学受験まで6年間もあるのだから途中で入っても十分間に合うだろうと考えてどこにも入塾しない。この判断が後々効いてくる。

・中学時代
 さっそく塾に通っている人と比べて苦手な分野が出てくる。例えば数学の授業についていけなくなり、試験で低得点を連発。
 これに対する心の防御反応として「この分野は大して重要ではないのだから人と比べて劣っていても問題ないのだ」と考えるようになる。一時的にこのような思考をするのはメンタルを壊さないためにも必要だが、次第に言い訳をするのに慣れ状態を改善しようとしなくなる。
 一方で学校の成績は良かった。授業を聞いていれば取れるタイプの試験で、そもそも聞いてない人が多かったためである。それを自分のある種の能力(これを地頭と名付けた)が優れているからだと勘違いし始める。
 また、地頭と努力の極端な二元論に走った結果、努力をしていない自分は、自らをその「地頭」でしか肯定できなくなる。また、「地頭」の良さが努力に勝るという価値観が生成される。
 このようにして、価値があるもの、ないものが自分が得意かどうかにより決定され始める。現状を肯定するための価値観が現状から逆算して作られる。

・高校前期
 ツイッターを始める。学問の徒と関わるようになり、何もしていないにも関わらず自分も彼らの同類だと思い込んだ結果、学問が受験勉強よりも高度で価値のあることだと考えるようになる。
 科学オリンピックに参加し当初の期待よりも良い成績を取ったことによりその傾向が強まる。

 これまでに、「地頭」>努力と学問>受験という2つの価値観が確立された。ここで、努力と受験勉強との高い関連性からそれらの概念を共通視するようになり、それらよりも高尚であると考えていた「地頭」と学問とが結びつけて考えられるようになる。すなわち、学問に努力は必要ないという勝手な思い込みが生まれ、自分に都合のいい「学問」という概念ができる。
 この「地頭」と「学問」の間には大きな共通点がある。これは客観的な評価が困難である点である。努力の量や受験勉強における立ち位置は、それぞれ勉強時間や偏差値によりある程度定量化しうる。一方で「地頭」や「学問」はそもそも自分で都合よく作り出した概念で、定義が曖昧なので解釈次第で具体的な要素を入れ替えられるし、定量的比較が困難であるため自分を肯定しやすい。しまいには入試における思考力重視の風潮を曲解し、地頭さえあれば勉強しなくても良いのだと考えたりする。(そんなわけはないと冷静に考えれば分かるのだが)

・高校後期
 これまで見てきたような、現状を肯定するために作られた価値観が自分の中で支配的になり、受験勉強に取り掛かることを妨害するようにはたらく。また、塾に通っておらず情報が入ってこないため、この価値観が再帰的に強化されていく。当然自分から動けば情報を入手することはできるのだが、強制的に耳に入ってくるものと異なり、都合の良い情報ばかりが記憶に残るので強いバイアスがかかる。
こうして受験勉強に一度も向き合わないまま受験が終わる。

体系的に学ぶことを諦める

学習について書こうと思う。


知識を習得するうえで、教科書を1ページ目から学習して覚えていく、というのが僕にはできない。 コツコツと日々努力できる人なら「毎日10ページ進めて、一か月で修了する」みたいな学習ができるのかもしれないけれど、熱意や集中がどうやっても数日で途切れてしまう自分には、そういう方法は取れない。塾が嫌いだという話もツイッターで何度もしていて、それに対して夜が遅いのが嫌だからとか色々と理由付けはしているけれど、根本的には塾がコツコツ学習する人向けに作られているから自分には合わない、というのが大きい気がする。


毎日努力できないのは、努力しようという努力が足りないからなのかもしれない。そう思って何とか頑張ろうとしたことも何度もあるけれど、一度も成功しなかった。そこで情けない自分を責める人もいるのかもしれないが、僕はそのあたりがのほほんとしており、自分は努力ができない人間なんだと納得してしまった。言い訳のように聞こえるかもしれないし、実際に言い訳なんだけれども、しかし現に努力ができていないのだから、僕は努力ができない人間なのは間違いないだろう。努力が足りないことと、努力ができないこととは、見ているレイヤーの問題であって別に相反することじゃない気がするのだ。うんうん、それもまた言い訳だね。


ともかく、コツコツと努力する人たちと同じ土俵に立っていては、勝ち目がないばかりか一方的に消耗を強いられてしまう。そう思って、別のやり方を試してみることにした。自分は集中の持続はできないけれど、のめりこんだ一瞬の集中の深さはそこそこなものだと思っている。だから、教科書の例で言うなら、熱意が続くうちに粗くてもよいから一通り読むことにしたのだ。当然最後まで到達する頃には飽きが回っているから、二週目なんてできない。集中が終わってしまうと、反動でその本を目にするのも嫌なほどになってしまうので捨てる。しばらくしてふいに熱意が沸いてきたら、またその分野の別の本を買ってきて通読する。(ブックオフでよく100円の本を買うのも、どうせ数日で読み終えて捨てると分かっているからだ)。これを何度か繰り返していると、新しい本でもどんどんとすらすらと読めるようになってゆくことに気づいた。


知識というのは、普通それ単独では意味を成さないから、他の知識と結び付けていく作業が必要だ。コツコツ勉強する場合、最初から体系化された(ツリー状に配列された)知識群を、その体系ごと頭に入れていくことになる。しかし、僕のやり方ではそのような芸当は不可能だ。だから、過去に得た断片的な知識を、頭の中で無意識のうちに結び付けながら進まねばならない。出来上がるのは、縦糸と横糸が整然と配列された布などではない。様々な部分がぐちゃぐちゃに結びつけられた不織布だ。新たな本を読むたびに、紙を漉くように繊維が堆積し、どんどんと強固なものになってゆく。そういう布である。


そんなぐちゃっとした知識のぐちゃっ、これは無秩序なのだろうか。そうではなく僕は、これも一つの秩序のあり方なのだと思っている。


そもそも人間の脳細胞はツリー状の秩序を持っているわけではない。人間の記憶もそうだ。こういう適当なことを言うと強い人に怒られそうだが。それなのに努力によって脳に体系をインストールしようと試みるのは、些か無理があるように思える。それでも無理がきく人は無理をすれば良いのだが、僕は逆らわない葦のような生き方を目指している人間だから、素直に体系的に学ぶことを諦めようではないか。そう思う。