日記(仮題)

日記を書きます

受験不合格までの道

 Twiiterで報告した通り、唯一受験していた大学の不合格が決まったため浪人生となりました。真面目に受験勉強に取り組まなかった自分には、「この時期にあの教材をやればよかった」とか「あの分野を後回しにしたのが良くなかった」などといった具体的な反省は書けませんが、かといって失敗の根本的な要因を解決せずにこのまま浪人しても合格することはできないだろうと思います。そこで分析の第一歩として、自分の身に起こった出来事を中学入学に遡って振り返り、自分がどのようにして不合格に至ったのか簡単なストーリーを構成してみます。


・始まりは些細なことから
 中学入学直後、同学年の半数以上の人は鉄緑会などの塾に入った。一方自分は中学に入ってまで塾通いを続けるのを面倒に思い(すでに中学受験のために2年間通塾していた)、大学受験まで6年間もあるのだから途中で入っても十分間に合うだろうと考えてどこにも入塾しない。この判断が後々効いてくる。

・中学時代
 さっそく塾に通っている人と比べて苦手な分野が出てくる。例えば数学の授業についていけなくなり、試験で低得点を連発。
 これに対する心の防御反応として「この分野は大して重要ではないのだから人と比べて劣っていても問題ないのだ」と考えるようになる。一時的にこのような思考をするのはメンタルを壊さないためにも必要だが、次第に言い訳をするのに慣れ状態を改善しようとしなくなる。
 一方で学校の成績は良かった。授業を聞いていれば取れるタイプの試験で、そもそも聞いてない人が多かったためである。それを自分のある種の能力(これを地頭と名付けた)が優れているからだと勘違いし始める。
 また、地頭と努力の極端な二元論に走った結果、努力をしていない自分は、自らをその「地頭」でしか肯定できなくなる。また、「地頭」の良さが努力に勝るという価値観が生成される。
 このようにして、価値があるもの、ないものが自分が得意かどうかにより決定され始める。現状を肯定するための価値観が現状から逆算して作られる。

・高校前期
 ツイッターを始める。学問の徒と関わるようになり、何もしていないにも関わらず自分も彼らの同類だと思い込んだ結果、学問が受験勉強よりも高度で価値のあることだと考えるようになる。
 科学オリンピックに参加し当初の期待よりも良い成績を取ったことによりその傾向が強まる。

 これまでに、「地頭」>努力と学問>受験という2つの価値観が確立された。ここで、努力と受験勉強との高い関連性からそれらの概念を共通視するようになり、それらよりも高尚であると考えていた「地頭」と学問とが結びつけて考えられるようになる。すなわち、学問に努力は必要ないという勝手な思い込みが生まれ、自分に都合のいい「学問」という概念ができる。
 この「地頭」と「学問」の間には大きな共通点がある。これは客観的な評価が困難である点である。努力の量や受験勉強における立ち位置は、それぞれ勉強時間や偏差値によりある程度定量化しうる。一方で「地頭」や「学問」はそもそも自分で都合よく作り出した概念で、定義が曖昧なので解釈次第で具体的な要素を入れ替えられるし、定量的比較が困難であるため自分を肯定しやすい。しまいには入試における思考力重視の風潮を曲解し、地頭さえあれば勉強しなくても良いのだと考えたりする。(そんなわけはないと冷静に考えれば分かるのだが)

・高校後期
 これまで見てきたような、現状を肯定するために作られた価値観が自分の中で支配的になり、受験勉強に取り掛かることを妨害するようにはたらく。また、塾に通っておらず情報が入ってこないため、この価値観が再帰的に強化されていく。当然自分から動けば情報を入手することはできるのだが、強制的に耳に入ってくるものと異なり、都合の良い情報ばかりが記憶に残るので強いバイアスがかかる。
こうして受験勉強に一度も向き合わないまま受験が終わる。