日記(仮題)

日記を書きます

偏差値の箱庭

前の記事で入試改革を呪うあまり嫌味のような駄文を生成してしまったので、テーマを引き継ぎつつもう少し真面目に書いてみようと思う。

文章の練習のために書いているので毎回文体が変わるけれども(言い訳)、多少読みにくいのはご勘弁願いたい。

定義とおことわり

たびたび出てくる「従来型の入試」あるいは「従来型の評価」というのは、①単純知識の暗記を中心とした、➁点数あるいは偏差値による入試や評価を想定している。偏差値は統計用語としてではなく、従来型入試での成績とほぼ同じ意味で用いている(いわゆる「偏差値」)。 また、筆者はそのような従来型の評価システムによりどちらかと言えば恩恵を受けてきたので、多分に現状肯定的な動機が存在することは否めない。その点は割り引いて考えていただきたい(などと自分から述べている時点で免罪符を得ようというせせこましい人間性が表れてしまっているような気がしないでもない)。


本文

「勉強がすべてではない」「テストの成績が良くても社会では役に立たない人間もいる」などの言説は頻繁に耳にするし、一般にわりあい浸透しているように思う。従来型の評価システムを批判するこれらの言説が生まれてくるのは、偏差値という評価基準がある程度の恣意性を持っているためだ。社会において必要な能力は実際にはいくつもあるのに、学生時代には試験の成績のみによって評価される。評価基準となりうる指標は複数存在し(例えば50m走のタイム、友達の人数、あるいは身長で入試の合格者を決めてもよい)偏差値である必然性はないのに、実際にはそれが選ばれているという恣意性である。

もちろん、偏差値による評価に妥当性が全くないわけではない。学校は学習をする場所なのだから、その成果を試験の点数である程度計ることができるし、それによって合格者を決めることには(少なくとも友達の人数で決めるよりは)妥当だと言える。努力すれば成績が上がると一般に信じられているため、自分では変えることのできない性質(たとえば身長)に基づいて評価されるよりも合理的だと考えられる。このように、従来の評価基準は恣意性と妥当性という相反する性質を併せ持っている。

そして、これら二つの性質はそれぞれ社会のなかで大きな役割を果たしている。偏差値が程度恣意的な基準であるからこそ評価は絶対視されることがなく、先に挙げたような「勉強がすべてではない」といった感覚が一般的になる。たとえ成績が悪かったとしても、そのことに負い目を抱えることはあるにせよ、未来を悲観し人生に絶望するほどには至らないことが多い。一方で努力によって評価を高めることができる基準であるゆえに、結果を得るために腐ることなく努力し、その結果を公正な評価として受け入れられるし、「努力をすれば報われる」と感じて幸せになれるのだ。(ここでは偏差値による評価がもたらす影響が人々の心の安寧に役立っていることを述べたが、それについて善悪や価値判断を行うつもりはない。)



さて、大学入試改革に代表されるような思考力や総合力を重視する風潮についてである。このような評価基準の変更はより社会で求められる能力を養うために行われるものらしく、端的に言えば従来よりも恣意性を下げ、妥当性を高めることを企図したものだろう。これにより評価そのものの価値が高まるし、総合力において劣っているなどと判断されれば、それは従来の勉強という一分野にとどまらず人間として総合的に劣位にあると宣言されることになる。さすがに誇張が過ぎるかもしれないが、低く評価された者がより大きな負い目を感じることになるのは間違いない。

翻って妥当性のもたらす公正感が増すのかと言えば、必ずしもそうはならない。試験の点数という明確でケチのつけようのない評価基準から思考力という漠然とした評価基準へと変わることで、それが正当な評価であるという感覚はかえって失われてしまう。努力によって向上させることが困難な評価は、因果応報的な信仰を否定する。

価値基準があいまいな中で評価を受けるという苦しみは、社会に出てから受ければ十分だ。せめて子供のうちは、狭い世界の中で明確な目標に向かって努力させてほしい。その箱庭にメスを入れるのは、無邪気な幼い子供の信じるサンタクロースを大人が否定するようなものだ。