日記(仮題)

日記を書きます

専門用語の「誤用」について

 

 

ここ3週間で専門教育を受け始めて思ったことを書き散らかす。

 

・各々の学問分野に専門用語が存在して、分野によって厳密さの程度が異なるにせよ、何らかの学問上の定義が与えられている。とはいえ、専門用語も日常語としての日本語の上に構築されているので、その言語感覚の影響を強く受けざるを得ない。例えば「合理的」といったとき、初歩的な経済学の教科書にもきちんと定義が書かれてはいるんだけど、経済学の理論が一般の (専門教育を受けてない) 人たちに紹介されたとき、やっぱり日常語の「合理的」の意味で解釈するだろうし。

 

 

・でもこれは、なにも非専門家の間だけの話ではなくて、むしろ専門家や、あるいは専門教育を受けようとしている我々のような人間のほうがよっぽど、理論的な理解の第一歩として日常語としての意味の助けを借りていると思う。それに専門のタームはあくまで日常語の言語空間を間借りさせてもらっているに過ぎないので、「その単語は専門用語としては厳密にこういう意味なので適当に使うな」みたいな偉そうなこと言える立場でもない。

 

 

・まあそんな分かりきったことはどうでもよろしい。こんなふうに当初はきちんとした定義を与えられていた専門用語が、いつしか一般に広まり、ある種のイデオロギーを形成する核となっているのを目にすることがある。当然日常語としての語感を頼りに普及するので、専門サイドからみると「誤用」だ、ということもしばしばある。こういうときに、専門家たらんとする人がどう振る舞うべきか、ってのをしばらく考えている。

 

 

・まず、専門家を名乗りながら、専門用語としての使い方と日常語としての使い方を区別せずに発信するのは、厳に慎まなければならない態度だと思う。でも現実を見ると、両方の用法を混同して使って、わざと二つの境界をあいまいにさせるような言葉遣いをする専門家は少なくない。

 

 

・ぼくは、これは一種のポジショントークなのだと理解している。というのも、社会においてある専門分野の主張 (をパクって換骨奪胎したイデオロギー) が広く受け入れられてその価値観が支配的になれば、一番得をするのはその分野の専門家だからだ。彼らに「誤用」を訂正する動機はないし、むしろあえて境界をごまかして侵略に加担することが自分自身の利益になる。このあたりは、たぶん経済学も大きな責任を免れられない部分だと思う。

 

 

・では、専門家であろうとする人たちは無知な人々の誤解を解いてまわるべきなのか。厳密にはこうなんだ、と放言したところで何の意味があるのか。そもそも言葉は彼らの独占物ではないというのに、何の権利があって?あるいは意味の変遷も言語空間における自然な創造作用だ、と言って関与しないか。そうやって知に引きこもることは専門家としての責任を果たしていると言えるのか。

 

 

こんなことを考えながら悶々としている、専門課程が始まってからの3週間だった。